・「守られる」コゼットと「守られない女たち」の対比
今日友達と話してて、友達が「コゼットは自力では何もしてないのに最終的に幸せになってる」と言っていたのだが、確かにそうなんだけど100年前のフランスでは「女は男に守られる」のが普通というか、女の幸せってそうだったんだろうなと思う
たぶん100年前の日本でもそうだと思うけど、女が一人で生きていく道が準備されてなくて、親や男に守られない女はすごく大変な目に遭ってたんだと思う
その点レミゼラブルは「守られない女」がたくさん出てくる
ファンティーヌもエポニーヌもそうだし、死にゆく売春婦たちも工場で働く女たちもそう
全然守られてない
歌が切ない
売春婦たちの「LOVELY LADIES」はおもしろおかしい風情で歌ってるけど、後半では性病で苦しむ売春婦の歌詞もあって、死と隣り合わせの女たちが描かれてる
「1日の終わりに」の市井の市民とか、工場の女たちがかぶさるように歌う歌があるんだけど、メインのメロディの上に女のハミングが入って鬼気迫る勢いで泣きそうになる
「守られない女」の中でも一番感情移入するのがエポニーヌ
テナルディエ夫妻の娘で、両親の手先に使われてコソ泥の真似事をさせられたりしているが、苦学生のマリウスに片思いしている
コゼットとマリウスが電撃的に出会ってしまったので片思いがいよいよ叶わぬ恋になってしまうのだが、コソ泥稼業で得た土地勘でコゼットに恋い焦がれるマリウスをコゼットの家に案内してあげたり、バリケードの中からマリウスがコゼットに書いた手紙を握りつぶさず届けてあげたり、最終的にマリウスをかばって銃弾に当たって死んだり、とにかくいじらしくて切ない役回りなのだ
なんていうかマリウスに腹が立ってくるほど健気なのである
そのエポニーヌが歌うのが「ON MY OWN」という歌で、日本語にすると「ひとりぼっち」みたいな意味だと思うんだけども、片思いって意味も入ってるのかなぁ
夜、帰る温かい家庭も頼れる友達もなく、一人で街をさまよいながら、隣に好きな男がいて一緒に歩く想像をする
しかも夜が明けるころには我に返って片思いだということを確認する
つら!!!!
コゼットと3人で歌うところ、「彼が求めたらあたしは彼のものなのに」とまで歌う
マリウス!頼むもらってやってくれ!!!!
と思うけどコゼットはコゼットでこの恋で人生が始まったと思ってる
25周年コンサートのリトルコゼット(コゼットの少女時代)はふっくらしたかわいらしい少女なのだが、10周年コンサートでは右目の周りにアザがありやせぎすで何かに怯えた様子の女の子
原作では「痩せたヒバリ」と形容されてるらしく、虐待されて憔悴した感じがつらい
この時点ではコゼットは全然守られてない
テナルディエ夫妻に搾取されてつまはじきにされてる
そこへジャンバルジャンが現れて救い出してくれて、守られる女になった
けどジャンバルジャンは逃亡中の身の上だからコゼットはほとんどジャンバルジャン以外の人と触れ合う機会がなく孤独な思いを持って生きてきた
けど愛され守られてきた
エポニーヌから見ればコゼットは恵まれてると思うだろうけど、コゼットにはコゼットの葛藤や苦労があった
かつては虐待を受け孤独に育ったコゼットが人並みに人を愛し愛されたいと思えたこと自体が、ジャンバルジャンがものすごく大変な思いをして人生をかけて成し遂げたことなのだなぁと思う
コゼットはテナルディエ家で過ごした少女時代のことを覚えていないという歌詞がある
しいたげられた日々を忘れられるくらい幸せに暮らしてこれたということなんだなぁと思うと胸が熱くなる
エポニーヌにもこういう人が一人でもいてくれたらと思う
逆説的になるけど、エポニーヌは自力で人を愛すことができた
だからそれがすごいと思うところ
ちなみに25周年コンサートのコゼットはうちのバンドのボーカルに似ている
ちなみにうちのボーカルはミランダカーにも少し似ている