とかげのたからもの

バンドが趣味の育児中会社員です。音楽鑑賞とジョジョとレミゼラブルが好きです。

コーネリアスの話

コーネリアス小山田圭吾の炎上騒動について。小山田圭吾のあの記事については音楽好きの中では有名な話というか、私は旦那が事あるごとに、例えばEテレで「デザインあ」が流れるたびに、「小山田圭吾はひでーやつなんだよ、学生時代に障害者とかいじめてたらしい」と言っていたのでその認識はあった。あったけど何とも思ってなかった。コーネリアスフリッパーズギターの音楽が好きというわけでもないというかむしろ苦手なほうだというのもあったし、記事の文章を読んだわけでもなかったから「性格の悪い渋谷系アーティスト」くらいにしか思ってなかった。無関心だった。

 

でオリンピックの開会式にコーネリアスが参画するとなって、旦那が「小山田圭吾ヤバい人なのにオリパラってw」みたいなこと言ってて、私も「ほんまそれw」とか言いつつ、そんだけ才能があるってことなんだろうな〜なんてボンヤリしてる間に、あれよあれよという間に燃え上がって開会式の4日前に辞任騒ぎに。その頃には私も当時のクイックジャパンの記事を読んで、その陰惨な内容に呆れたので辞任も仕方ないでしょ〜と思った。

 

という頃に爆笑問題の太田が小山田圭吾の擁護とも取れる発言をして批判を浴びたというのを聞いて、ちょっと心配していた。私けっこう爆笑問題は好きでラジオもちょいちょい聴いてるし、以前の津久井やまゆり園の事件の時も太田がすごく真っ当なことを言っていたから、その太田があのいじめの内容を容認するなんて思えないし、どうせまた言葉足らずだったり興奮したりして意図が伝わらなかったんだろーな。と思っていた。

ので昨日(2021.7.21)のラジオ「爆笑問題カーボーイ」を楽しみにしていて、イチコが寝てる間のニコの授乳中とかにこそこそ聴いたところ、太田が私が思ってたよりもすごくちゃんと考えてて感心した。

太田が言ってたポイントは↓の感じ。

・記事の中のいじめの内容は陰惨でひどいもので到底容認できるようなものではない

・あのインタビュー記事が雑誌に載り流通し、その雑誌が特に廃刊になったりせず今日まで続いていることそのものが、「あの記事」を容認する時代の空気がどこかにあったという証拠

・自分もみんなもあの時代に生きていて、それを見逃して小山田圭吾の「存在の仕方」を許した責任がある。インタビュー記事のインタビュアーも露悪的な内容を期待してインタビューしていて小山田がそれに乗っかっている部分はあるし、小山田がガキ大将的な存在だったのか、もしくは逆らえないような立場だったのか、それはあの記事からは全く分からない

・インタビューを読んだ一般人が感情をかき立てられて小山田圭吾を攻撃したくなる気持ちは理解するが、報道機関が一般人と同じように騒いでいるように見えるのがおかしい。インタビュー内容の裏を取った報道機関が皆無で、みんなインタビューという「本人の証言」だけを立脚点にして小山田を叩いていることがあやうい

・何千何万という人が1人を叩き潰す図式はそれもいじめと変わらない。10年後20年後に「ネットいじめは恥ずべき行為」というリテラシーが定着した時代の若者が今のこの炎上騒動を見たらどう感じるか

・人を裁いていいのは司法だけ。一般人が一般人を裁くリンチが当たり前になったらこの世は無法地帯になる。小山田圭吾はモンスターだから叩いていい、小山田圭吾をこの世から退場させて終わり、という風潮を感じる

・醜悪なモンスターは自分の心にも潜んでいるし、小山田だけでなく、あらゆる人は未熟で不完全で、残酷さを秘めている

なんかこれを聞いて、自分の中になかった視点がいくつもあったり、ボンヤリ思っていたことが明確化したりした。

自分の中になかった視点は、「人を裁いていいのは司法だけ」というところで、あの記事の裏を取った報道機関が無い(あるのかもしれんけど表立って報道されてない)という点。本人が言ってるんだからそうなんでしょうと思ってたし、真実と違うとしてそれを雑誌に半笑いで語るというのがサイコパスみがあって怖いわ〜と思ってたのだが、もしかしたら逆らえない立場で仕方なく参加したことを後年かっこつけて語ったのかもしれない、という想像力を持つというところが自分に欠けてたなと思った。

 

私が思ってたのは、小山田圭吾をこの世から退場させたとしても障害者いじめを含めたいじめ行為は少しも減らないということ。今回、何十年も前の障害者いじめが話題になっていて、その真相は分からないけども、いま現在だってああいうことが起きているはず。何十年前よりはマシになっているのかもしれないけど絶対ある。むしろひどくなってる側面もあるのかもしれん。今回の騒動をそういうことをみんなで考えるきっかけにすれば当時いじめられていた子たちも浮かばれるんじゃないかと思う。

あと小山田圭吾を攻撃したくなるのはまあ分かるけど、例えば小山田圭吾の息子まで炎上するとか、そういうのは集団心理の暴走というか、本当にただのいじめだと思う。もし仮にこれで小山田圭吾がノイローゼになって自殺したとして、いま小山田圭吾を攻撃し続けてる人はそれでも「因果応報だ」って言えるのかっていう。後味悪すぎだし何の解決にもなってない。

「障害者いじめを公言していた人物がオリパラに関わるのは不適切」という主張は真っ当な気がするけどそれは辞任でもう叶ったのだから、ここからは小山田圭吾がどうこうとかじゃなくて、障害者差別やいじめ問題をどうしていくのがいいのかを話し合うフェーズなんじゃないかと思った。

 

「誰の心にもモンスターはいる」みたいなところが刺さった。

高校の時のキリスト教の授業で習ったけど、なんか悪いことした女に民衆が石をぶつけてる場面に出くわしたキリストが「自分に全く罪が無いと思う人だけがあの人に石を投げなさい」というようなことを言ったところ、1人また1人と人が去っていき、石をぶつける人は誰もいなくなった みたいな話があって、それに近いのかなと思った。

あと全然違うかもだけど、会社のLGBT研修で、LGBTはグラデーションという話があって「あの人はLGBT、オレはフツウ」というような分け方はできなくて、例えば私も性自認は女だし恋愛対象は男だけど、髪はショートカットだしパンツスタイルの方が好き、みたいなのを「女らしくない」と言われるのは違和感、みたいなやつ。そういうのも近いのかなとか思ったり。違うか。

とにかく「あいつはモンスター、オレは正義」と決めつけて攻撃するというのは間違ってるというところ。どんなにあの記事が醜悪だったとしても、そして一人一人がやってることはTwitterにちょこっと書き込むとかその程度だったとしても、それが何万と膨れあがって一人の人間を殺すとしたらそれはやはり犯罪的だってことよな。小山田圭吾が本当にああいう犯罪的なイジメをしていたとして、被害者は一生彼を許すことはないとして、じゃあ小山田圭吾を含めた私たちはどんな社会を作っていけばこれからの被害者を産まずに済むのか?っていう。

津久井やまゆり園の事件の時も、犯人の「障害者は生きていても仕方がない」みたいな歪んだ主張に賛同する人がけっこういて驚いた。驚いたけど、自分の子どもが産まれて産院で検査を受けて、耳は聞こえてます、四肢に異常なし、みたいな結果を聞くたびにホッとしてしまうのは事実。もし日本で障害者がみんな健常者と全く同じように楽しく便利に生きていけるとしたら、ホッとしたりせんと思う。あ〜そうなんだ、ふ〜んくらいのもんだと思う。それがそうならないのは、日本がまだまだ障害者に冷たいのを知っているからなんだと思う。知っていても何もしていない自分おる。

障害者だけじゃないよな〜と思うのは、電車にベビーカーで乗ったらどんな状況でもベビーカー畳めと罵られるとか、コロナ禍で看護師の親を持つ子どもが保育園への登園を拒否されたとか、選択的夫婦別姓が合憲判決になるとか、親から性虐待を受けた子どもが「抵抗しなかったから」という理由で親が無罪になるとか、そういう「想像力の無さ」による世間の冷たい仕打ちをひとつひとつみんなで考えていくことで、みんなの心の中のモンスターを弱体化して飼い慣らすことができるんじゃないかなと思った。

 

爆笑問題のラジオがどこまで波及性があるのかわかんないけど、あのラジオがなにか一石を投じられればいいなと思った。