とかげのたからもの

バンドが趣味の育児中会社員です。音楽鑑賞とジョジョとレミゼラブルが好きです。

もののけ姫とフェミニズムの話

ジェンダー学への興味みたいな記事を書いたのだが、今日在宅勤務の昼休みにジブリの「もののけ姫」の録画を流してて、なんか思うところあったので書く。

もののけ姫は、ジブリ映画の中でベスト1、2を争う好きな映画(対抗馬はナウシカ)で、公開当時に映画館で2回観たし、その後も無数に観てるのだが、今日はなんかこれまでと違うところでグッときてしまった。

 

キーマンは2人の女。エボシ御前とトキ。

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エボシ御前は設定として、売られるかさらわれるかして海賊の親玉の女房をしていたが、満を持して夫を殺し財産を奪って日本に引き揚げてきてタタラ場を拓いたという人。その時にエボシを慕って付いてきた海賊の子分がゴンザ。

エボシの野心はすごくて、鉄造りによりひとつの国を作ろうとしている。そのためには外敵を防ぐために武力である石火矢(鉄砲)が必須で、その石火矢を扱う「石火矢衆」という技術集団を招き入れた。その見返りとして、石火矢衆の親玉である唐傘連、その親玉の師匠連からの要求である「獅子神の首」をなんとしても手に入れなければならない。

かなり非情なところがあり、事故で谷に落ちた牛飼いたちを振り返ることなく隊列を進めたり、大勢の犠牲が出ることを承知で自国の民をイノシシの暴走の囮にする唐傘連の作戦に同調したりする。

その一方で、「売られた娘を見るとみんな引き取っちまう」という一面があったり癩病を恐れず手ずから患者を看病したりする一面があったりする。娘たちはタタラ踏み、患者たちは石火矢の改良というような仕事に従事している。

見方によっては、売られた娘・癩病患者という「社会的弱者」を救ってみせることでカリスマ的崇拝を集め、忠誠を誓う部下を増やすための作戦のようにも思えるが、どうもそれだけとは思えない。自分が社会的弱者だった、なんなら今も女というだけで侍たちに舐めてかかられるという弱者であるということは切っても切り離せない気がする。

↑の非情な一面で切り捨てられているのは「男たち」。男にはちょっと冷たい。男たちの方も、牛飼いのカシラ(いい人)は元気な女たちを見て「エボシ様は甘やかしすぎだ」と苦々しくつぶやくし、別の牛飼い(いい人)は獅子神退治に行ったエボシについて「エボシ様は奴ら(唐傘連)に踊らされてるんだ!」と吐き捨てる。なんなら「タタラ場に女がいるなんてなぁ。普通は『鉄を穢す』ってそりゃあ嫌がるもんだ」なんて言ったりする。「女がいる」どころじゃなく首領が女なんだもんなぁ。本来なら女が踏み込むことを許されない領域でエボシは平然と首領を張りトキたちは元気にタタラを踏んでいる。

エボシと男たちの間には、労使契約はあれど信頼関係や忠誠みたいなものはちょっと薄いように見える。ゴンザは別かもだけど。

エボシとサンの決闘後、エボシを気絶させたアシタカが「誰か手を貸してくれ」と呼びかけると、男たちは怯えてなのか呆気にとられてなのか、その場から動けないのだが、女たちは即なぎなたを捨てて駆け寄る。こういうときに信頼関係って出るよねという。

エボシは決して完璧なリーダーではないし、ある程度成果主義というか、ゴチャゴチャ言う奴は力でねじ伏せる面がある一方、女たちや患者たちから寄せられる血の通った忠誠に癒されてるのかもしれない、と今回思った。

長くなったけどエボシでグッと来たのは次のシーン。獅子神の首をついに落とし、ジコ坊に投げて寄越すエボシの表情・声がグッと来た。

「受け取れ!約束の首だ!」と叫ぶその顔は万感の想いというか、もはや悲壮感さえある。エボシは獅子神を殺すことなんて正直なんとも思っていないけど、この首を獲るために彼女がどんだけのものを犠牲にしてきたかというのが思い起こされて、グッと来た。

獅子神退治に向かう途中でアシタカが追いつき、タタラ場が侍に襲われていて女たちがなんとか籠城している状態という旨を告げる。ゴンザは即「エボシ様、戻りましょう!」と進言するが、エボシは自分に言い聞かせるように「…女たちにはできるだけの備えをさせてある。自分の身は自分で守れと」と呟き、獅子神退治を続行する。籠城がやぶれた場合に女たちがどんな目に遭うかエボシは分かってるけど、それも含めて女たちに覚悟を決めさせてるというのが伝わった。ここで引き返して唐傘連に舐められるわけにいかないという想いもあるだろうし。

そんなシーン。

 

次はトキ。トキはエボシに拾われた「売られた娘」の筆頭でそのリーダー格。

グッと来たのは2つ。

 

ひとつめは、獅子神退治に出るエボシを囲むシーン。エボシを心配する女たちにゴンザが「案ずるな!エボシ様のことはこのゴンザが必ずお守りする」と胸を張るがトキが「それが本当ならねぇ」と混ぜっ返す。何?!と気色ばむゴンザにトキは「あんたも女だったら良かったのさ!」と畳み掛け、ゴンザは返す言葉がなく、エボシは噴き出して大笑いする。

きっとトキは過去に何度も「あんたが男ならねぇ」と言われて辛い目に遭ってきたのだろうと思った。男だったら売られずに済んだのかもしれない。男だったら牛飼いの女房くらいでおさまるのではなく、その気性を活かして一本立ちできたのかもしれない。

でもトキはエボシに感謝しているし忠誠を誓っている。それは恩があるのはもちろんだけど「女だから」というのも大きいんだと思う。それが女尊男卑に見えないのはトキのサッパリした物言いによるものなのかもしれない。ほんとうはエボシが女でも女じゃなくても、トキたちが生き生き暮らせるのが一番なのだが、この時代にそれは難しかったのかもしれないしそれは現代も同じかもしれん。

 

もうひとつは、デイダラボッチが首を取り返しにやってきて、タタラ場が窮地に追い込まれるシーン。

最初は「持ち場を離れるんじゃないよ!タタラ場を守るんだ!エボシ様と約束したんだから」と気丈に周りを鼓舞しているが、いよいよデイダラボッチが迫り周囲が慌てふためくと、物凄く悔しそうな顔をしたあと、「騒ぐんじゃない!みんなを湖へ!怪我人や病人に手を貸すんだよ」と的確な避難指示をする。

トキにとってはエボシとの約束が全てで、例え死んでもタタラ場を守るという覚悟だったと思うが、もうタタラ場どころじゃないとなった時に方針を切り替えて人命優先にできたのはすごく偉かったし悔しかっただろうなって思う。

このあと自ら癩病患者を背負いながら逃げる途中、夫の甲六が燃える大屋根を見ながら「もうダメだ…大屋根が燃えちまったら、何もかもおしめぇだ」と早々に弱音を吐くのを「生きてりゃ何とかなる!」と一喝する。このシーンもグッと来た。この時のトキの表情も、獅子神を殺したエボシと同じく悲壮感を感じた。

余談になるけどこの避難シーンの前、癩病患者の女とトキが一緒に夜明けを待つシーンがある。元々は癩病患者は隔離されており、おそらく差別を受けていたのだが、戦の混乱の中でそんなの関係なくなり、石火矢を撃てる癩病患者たちは重宝され共に戦うようになった様子。

夜明けを待つ2人の女はなにか美しく、患者の女がトキの石火矢を手入れしてくれていて、「取れたよ、トキ」「ありがとう」という会話もとても自然で、その後患者の女がふところから出した食べ物をトキは受け取って食べるなどする。

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宮崎駿のインタビューで、「トキと言えども平時は癩病患者がふところから出した食べ物を受け取って食べることはあり得なかったはず」と言っていた。サッパリした気性のトキですら、普段は癩病患者は同じ人間と思えなかったということか〜と思った。そう思うと↑の「取れたよ、トキ」という会話も、トキという名を患者の女は今回の戦の中で初めて知ったのだろうと思うとグッと来た。弱者の女の中でも更に弱者の癩病患者のこの女がどんな苦労をしてきたか、それを救ったエボシという人間とは…と思うなどした。結果としてラストシーンで患者の女の病を獅子神が取り去ってくれるというオマケが付いているのだがこれは物語だからこその優しさで、本当は彼女は一生偏見に苦しんだかもしれない。病が治らなかったら戦の中で友になったトキと今後、どんな人間関係になったのか興味ある。

エボシとアシタカの初対決というか、ナゴの神を石火矢で追い詰め祟り神にし、結果としてアシタカに呪いを与えたエボシの野心に対しアシタカは怒りを覚えるのだが、癩病患者の長が「あなたの恨みや悲しみはよくわかる。でもその人を殺さないでほしい。その人はわしらを人間として扱ってくれたただ1人の人だ。わしの病を恐れずわしの腐った肉を洗い布を巻いてくださった」とエボシをかばう。その帰り道にアシタカは女たちの職場であるタタラ場を訪れ仕事を体験し「この暮らしは辛いか」と問いかける。問いかけに対し女たちは「そりゃあさ…でも下界にくらべりゃずっといいよ。お腹いっぱい食べられるし、男がいばらないしさ」と笑う。アシタカは「…そうか」とつぶやく。

アシタカは本当は「辛くてしょうがない、エボシはひどい人だ」という返答を期待していたのかもしれない。そしたら心置きなくエボシを殺せるのにと。でも患者たちや女たちにとってエボシはなくてはならない存在なんだよねぇ。

 

なんてフェミニズムからだいぶ離れたけど、もののけ姫の新たな見方ができましたという話でした。