最近映画づいてるので、周囲にオススメの映画を聞いてみたところ、Kぬが教えてくれた「チョコレートドーナツ」という映画がたまたまTwitterでも評判になってたので興味を持ち、アマプラにあるのをいいことにさっそく見てみた。
【これより先は(ネタバレを含むので未見の人は)読んではいけない】
や~感動した。最後の15分ほどは泣いた。
なんでそんななの?ルディたちが何をしたのか?同性愛がそんなに悪いことか?
というような怒りは前提としてあるのだが、それよりもまず、二人がマルコをこんなに愛してたなぁとか、マルコはすごく安心して暮らしてたなぁとか、三人は幸せだったなぁとか、そっちが頭に浮かぶから、怒りは後から湧いてくる感じ。
マルコの母親がもうほんとダメな人なんだけど、もともとダメだった人が妊娠しちゃって産んでみたらたまたま障碍児で、持て余しちゃったというのはまあ分かる。ルディたちが「ダウン症の子を育てるのは大変ですよ」と言われつつ頑張ってやっていたことすべてをあの母親がしなきゃいけなかったわけだけど、そんなのあの人には絶対できるわけないんだよ。人格的に。だけど後半、黒人の弁護士が言っていた通り、「母親には勝てない」のが世間の見方で、「母性神話」みたいなやつがすべての元凶のように感じた。
メインテーマはゲイへの差別・偏見なのだけど、そのさらに下には母性神話というか、血縁がすべてに優先するみたいな考え方がそもそも横たわっているのだろうなと思った。
母親だからってなんでもできるわけじゃない、ということが世間で当たり前になれば、みんなで助け合わなきゃ、とか、血縁が無くても環境と愛情があれば子供はまっとうに育つ、っていう風になって、やっと初めて「ゲイへの差別・偏見」ていうメインテーマに行きつくんじゃないかと思った。
母親の弁護士がも~~はらたつのりなのだが、でもあれが世間なのだと思った。世間に背広着せたらああなる。腹立つのり~!
ルディたちとマルコにそれぞれヒアリングしてきた、家庭局?かなんかのおばさんも表情が腹立つのりだったのだが、法廷でルディたちがきちんとした環境と愛情をもってマルコを育てていたようだと証言してくれて、ちょっとホロリとしてしまった。おばさんありがとう。。。
冒頭、マルコが人形をもって夜の街をさまよっているシーンからスタートするのだが、私はこれが1度目の家出、ルディが偶然車の中からマルコを見つけるシーンにつながるのだと思い込んだのだが、実はエンディングの2度目の家出のシーンを示唆していた。
これって私が単に勘違いしたのか、そういうミスリードをあえて仕込んだのか、ちょっと気になる。
エンディングの、ポールから関係者、ルディたちとマルコを引き離した当事者たちにあてた手紙のシーンはほんと衝撃を受けたし泣いた。ポールが無表情でタイプライターを打っているのに対し、それを読む関係者たちは一様に驚き衝撃を受けた表情をしていて、手紙の内容は彼らを直接非難したりなじったりしているわけではないけど、彼らはきっと自分たちが下した判断が合っていたのかどうか自問を始めてくれたはず。というのは希望的観測すぎるのか?
自問を始めたとして、みんな「自分だけのせいじゃない」と思ってしまいそう。弁護士は「判断を下したのは裁判官だ」と思うし、裁判官は「判例に照らして判断をしたまで」ときっと思うし。ポールの元上司の検察官はどういう想いになるのかなぁ。「弁護士に頼まれたからやったまで」とか思うのかなぁ。それって悲しくないかね。せっかくの賢い頭をもっと有意義に使ってほしい。
マルコがほんとにかわいそう。一人で誕生日を迎えて一人で死ぬことになるなんてほんとにかわいそう。ルディたちと暮らしたかったよねぇ。思い出すだけで涙が出る。
少し前に、障碍者を19人だか殺してつかまったやつがいたけど、そいつは「障碍者は迷惑をかけるだけで生きてる意味がない」みたいなことを言っていて、ネットとかでそれに賛同する声があるっていう。
絶対間違ってると思うんだけど論理的に反論できないと思って腹立ってたのだが、この映画見て、こういうことなんだろうなぁと思った。
マルコは確かに劣悪な環境から救ってもらったけど、ルディもポールも救われてたんだと思う。もちろんマルコの世話は大変だったと思うけど、でも救われてたと思う。
19人殺した奴に反論するには、こういうのを積み重ねていくしかないんだと思った。
ってかいまWikipedia見たらこの映画、元は実話らしい。すべてのストーリーではないけど、ゲイの男性が障碍児を引き取って育てたという話にヒントを得ているらしい。
実話におけるマルコとルディが幸せだったらいいなぁと思うなどした。おわり。